フアン・ホセ サエール著
こんな小説は、ぼくには書けないけど、こんな世界はすごい。どんな世界か? 以下のアマゾンの1読者の書評をご覧下さい。
2016年7月22日
Amazonで購入
私は小説に関して、作家保坂和志の評論から多くのことを学んできたのだが、その保坂氏が、『自分は「小説は作者を超える」ともう何度も書いてきたが、この小説でそのことを初めて発見した』という趣旨のことを書いていた。また同時に『この小説は「静かな思索みたいなものがゆっくり広がっていく」』とも書いていた。それで、私はこの『孤児』を読もうと思った。(保坂氏の見解はパソコンの中の「保坂和志公式ホームページパンドラの香箱」の「試行錯誤に漂う17」で読むことができる)。
モルッカ諸島に向かう探検隊が、途中インディオの一部族に遭遇。一人生き残って十年間生活を共にした見習い水夫がのちにその部族の生活を思い出して語るという、奇想天外な冒険話である。読み始めてしばらくは、題材は異様でも当たり前の文体で語られているので、これがすばらしい小説なのかなと半信半疑だった。ところが72ページ「二日目の夜は、……」からがらりと調子が変わり、まるで別の物語のように落ち着いた内容になった。さらに129ページで、帰還した主人公が自分の家に落ち着いて、文章を書きはじめると、一気に思索的文章が増え始めた。いよいよサエールの本領発揮かと思ったら、急速に文章が難解になってきた。140ページを過ぎると、この著者がこの部族を肯定的にとらえているのか、否定的にとらえているのか分からなくなってきた。当初は当然肯定的に捉えている(現代文明が忘れたものを保っているのかな)と思っていたのだが、しかし、自分たちこそ世界の中心であると確信しながら同時に絶えず不安に脅かされてその結果人肉を食す習慣も留めているこの部族が、現代文明の批判者として登場してはいないようなのだ。もしかして著者は部族を否定的にとらえているのかもしれないとも思い始めた。世の中が変化する中で、井の中の蛙的な未開の部族が途方に暮れながら古来からの生き方にしがみついているとも考えられた。そして小説の最終コーナー(164ページ)あたりにさしかかった。どうやら著者は(主人公を通して)、私が考えるレベルとは全く違った、普遍的・根源的な物語を紡いでいるようだ。それも、驚きを思い出してかろうじてその一部の解明を図るといった形で(それ以上の意図は感じられない)。
確かに、世界と彼ら(=インディオの一部族)は一心同体だが、だからといって、相互に確信を深め合うわけではなく、むしろ、どちらも常に不安に苛まれている。(p.137)
彼らは、いつでもすべてをまったく同じ状態に保つことで、世界は変わらないと信じ込みながら生きて行こうとする。(p.159)
(部族の子供たちが遊んでいる風景が)こうしてしつこく私の記憶に残っているという事実は、ただの無意味な偶然ではあるまい。時の流れに逆らってこれほど長く持続する記憶は、深いところでこの世界の本質とつながっているのではないだろうか。(p.160)
(あるとき突然、月食を迎え、部族も主人公も茫然と空を見上げる。)
実は、これ(=完全な暗闇)こそ我らが祖国の真の姿なのであり、曙光から夜の闇に沈むまで、光のおかげで我々は物に様々な色と形があるように思い込んでいるが、この完全な暗黒こそ本当の色なのだ。(pp.179-180)
私は海の生まれであり、天体の運行に依存する仕事柄、当然月食についての知識はあった。だが、知識は必ずしも助けにはならない。真に知るとは、我々に知ることができるのは表面的なことだけだと知ることだろう。(p.180)
そして最後に主人公は、あの部族の下で暮らした十年から六十年が経過したけれども、あの時に始まり現在に至る太古の川のような流れこそ私の人生であったと述懐する。
コメント
コメントを投稿