歴史学者・米シカゴ大学講師王友琴さんによる文革の調査
良記事。王さんを尊敬します。
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中国社会を大混乱に陥れた文化大革命=キーワード=の終結から43年。中国の人々はいまだにその傷痕を癒やすことができていない。1千万人にも上るとされる、その犠牲者一人ひとりの記録を独自に調査している米国在住の中国人学者がいる。見えてくるのは絡み合う「被害」と「加害」。私たちは歴史の記憶にどう向き合うべきなのか。
――ご自身も文革を経験していますね。1966年に文革が始まったときは13歳ですか。
「ええ、飛び級で北京の女子高1年生でした。政治運動が徐々に学内に入ってきて、その年の6月から授業がなくなった。教師らを糾弾し、毛沢東主席の書籍や人民日報を読むのが日課でした」
――その学校で死者が出たのですね。
「8月5日午後、女性の副校長を批判する『闘争会』が校内の集会場で開かれました。昼食の後、午後1時ぐらいでした。全校生徒約1600人のうち少なくとも1千人はその場にいたはずです」
「壇上で副校長は墨汁を頭からかけられ、殴られていました。私もそれを見ていましたが、30分ほどで宿舎に引き揚げました。つるし上げは続き、その日のうちに副校長は亡くなった。後に遺族に見せてもらったのですが、腕時計は午後3時40分で止まっていた」
――なんでそんなことが起きたのでしょうか。
「多くの生徒が、こんなことは間違っていると心のなかでは思っていたのではないでしょうか。学校の先生を打倒して、しかも殺してしまうなんて、正しいわけがない。中国の長い歴史を見ても、そんなことはかつてなかった。でも、口に出すことはできなかった。何か言ったら自分がどうなるか分かりません。現実はひどく残酷でした」
――言いにくいですが、ある意味では、その場にいた全員が消極的な加害者だったのでしょうか。
「旧ソ連の共産党第1書記だったフルシチョフは『沈黙は賛成だ』と言ったとされます。誰も暴行を止めなかった。でも文革のとき、多くの中国人には何の選択肢もなかった。それも事実です。私はひたすら数学の勉強をしていました。その日も闘争会を抜け、数学の本を読んでいた」
「文革で迫害されて死んだ人の多くは知り合いに殺されました。迫害される人は増え続け、加害者は次々と被害者に変わった」
――党幹部の子どもたちが多い名門校だったそうですね。
「確かに有名校です。生徒の半数は高官子弟でした。国家主席だった劉少奇の娘や、トウ小平の娘もいました。文革の最初のころは教師を批判する立場でしたが、文革が進むと、彼女らの親が批判されました。ご存じの通り、劉少奇は迫害で亡くなり、トウ小平は失脚して地方に飛ばされました」
――ご自身も文革中に下放(かほう)されました。
「私の両親は教師でしたが、父親が迫害を受けました。私は16歳で、2歳下の妹と一緒に雲南省の農村に送られました。ひどい生活です。森林を切り開き、ゴムの木を植えました」
■ ■
――文革が終わって大学入試が再開され、北京大学の中国文学部に合格します。そして徐々に文革でいったい何が起きたのかを調べ始めました。なぜですか。
「私の調べた北京の学校10校で66年8月だけで校長3人と教師3人が迫害によって亡くなりました。しかし、校史には何の記載もありません。政府の発表にも被害者の細かな史実はありません。でも、そんなのはおかしい。死者には一人ひとり、名前がある。当時、必ず誰かが見聞きしていたはずです。単なる数字ではなく、すべての死者が尊重されるべきではないでしょうか。そのためにはまず、すべての死が記録されなければならない。そう思いました」
――調査はどのように行ったのですか。
「政府や学校は資料を公開してくれないので、関係者の証言を一つひとつ積み上げていくしかありませんでした。殺された副校長の夫らに会いにも行きました。最初は信用してもらえず、話も聞けませんでしたが、私が文革について書いた文章を見せた後、大量の資料を提供してくれました。私は600人を超える死者の個人史をまとめ、香港で出版しました」
■ ■
――共産党政権が調査行為を歓迎するとは思いません。証言を得るのは難しかったのでは。
「難しかったけど、多くの人が協力し、証言してくれました。その数は1千人以上に上ります。ただ、『自分が言ったとは絶対に言わないで欲しい』と頼まれることが何度もありました。だから、誰が誰を殴ったのかとか、どこまで公表するか悩んだ部分もあります」
「一方で、だれが私の母校の副校長を殺したかは今も分かりません。その場には多くの人がいたのに、証言がない。まだまだ埋もれた事実がたくさんあると思っています」
――証言を阻んでいるものは何ですか。
「みんな圧力を受けているのです。何も言うなという圧力です。私は米国にいるのに、なんで中国のイメージを悪くするようなことを発表するのかと、中国人から批判が来ます。大学に直接来て文句をいう人もいます」
――それは自らの加害行為を認めたくない中国人たちの圧力ということですか。
「南京大虐殺を調べる学者は支持され、募金の呼びかけもあるのに、文革を調べる学者は調査をやめろと言われる。同じように中国人の死について調べているのにですよ。ダブルスタンダードと言われても仕方ないですよね。すべての歴史に対し、事実は事実として認めるべきだと思います」
「それでも希望を感じるのは圧力があるのに、私に連絡をしてくる人が存在するということです」
■ ■
――2013年ごろ、中国で当時の紅衛兵が自らの行為を謝罪する動きが出ました。これまでになかった文革での「加害」への自意識です。どう受け止めましたか。
「外相などを歴任した陳毅の息子の謝罪のことですね。彼は紅衛兵として文革時に自分が教師を批判したことを謝罪した。それ自体はいいことですが、詳細については語っていません」
「きちんと事実に向き合わない人も多い。例えば、私の学校の紅衛兵の『親玉』として有名だった女性は『副校長を守れなかった』ことにおわびをしました。でも、それは違う。直接に手を下したかどうかは別として、そうした状態をつくるのに彼女たちは関与したのではなかったのか」
――自らの加害に向き合うという行為は難しいですね。
「彼女をはじめとする紅衛兵たちが、毛沢東と天安門で『謁見(えっけん)』したのが66年8月18日。その意味は極めて重いと思います。これを機に、つるし上げ行為がさらに過激化しました。北京では8月下旬から9月にかけて、1772人が殺されている。異常な状態が生まれたのでしょう。私の学校では教師以外に食堂の従業員が紅衛兵たちにつかまって殺されていたことなども分かりました」
――明らかに事実と異なることを言って、加害行為を認めない人もいますね。
「自らの発動によって数百万人への迫害があったのに、その罪を死ぬまで認めない党幹部もいました。芥川龍之介の『藪(やぶ)の中』のようです。いろんな人が文革について、あるいは文革のなかの一つの事件について別々のことを言っている。真実に向き合いたくない心理があるのかもしれません」
――習近平(シーチンピン)体制になって、教科書の文革についての記述が大幅に後退しました。
「ジョージ・オーウェルの『1984』には『過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する』との言葉が出てきます。まさにその通りです。誰かが勝手に私たちの過去をコントロールしないように、歴史の真実を明らかにし続ける必要があります。自分の未来は自分でつくらなければなりません」
*
ワンヨウチン 1952年、北京生まれ。中国社会科学院を経て米スタンフォード大学客員助教授を務めた。近著に「文革受難死者850人の記録」(集広舎)など。
■取材を終えて
多くの中国人にとって、文革の歴史は「被害」の記憶のなかにある。しかし、その一人ひとりの史実を追っていくと、「加害」の事実が重なる。王友琴さんの調査は、そんな中国人の複雑な感情を微妙に刺激しているようだ。
これは私たち日本人にも有効な問いかけかもしれない。
かつてシベリアに抑留された詩人石原吉郎は「〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる」(「望郷と海」)と書いた。「ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮(さつりく)されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ」と。
多くの日本人にとって、先の戦争の記憶は被害のなかにある。しかし、侵略を受けた国の人々から見れば加害者の顔だろう。この事実を私たちはどれだけ意識しているのか。そんな視点にも気づかされる。(論説委員・古谷浩一)
◆キーワード
<文化大革命> 1966年、党指導部内の権力闘争を背景に、毛沢東主席の主導で発動された大規模な政治運動。紅衛兵による暴力的なつるし上げ行為が各地でエスカレートし、社会が混乱。被害を受けた人は1億人に上るとも言われる。76年に毛の死去で終結。共産党は81年の「歴史決議」で「大きな災難をもたらした内乱」と位置づけた。文革時に10代だった習近平国家主席も父親が地方に飛ばされ、自らも陝西省の農村に下放されている。
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中国社会を大混乱に陥れた文化大革命=キーワード=の終結から43年。中国の人々はいまだにその傷痕を癒やすことができていない。1千万人にも上るとされる、その犠牲者一人ひとりの記録を独自に調査している米国在住の中国人学者がいる。見えてくるのは絡み合う「被害」と「加害」。私たちは歴史の記憶にどう向き合うべきなのか。
――ご自身も文革を経験していますね。1966年に文革が始まったときは13歳ですか。
「ええ、飛び級で北京の女子高1年生でした。政治運動が徐々に学内に入ってきて、その年の6月から授業がなくなった。教師らを糾弾し、毛沢東主席の書籍や人民日報を読むのが日課でした」
――その学校で死者が出たのですね。
「8月5日午後、女性の副校長を批判する『闘争会』が校内の集会場で開かれました。昼食の後、午後1時ぐらいでした。全校生徒約1600人のうち少なくとも1千人はその場にいたはずです」
「壇上で副校長は墨汁を頭からかけられ、殴られていました。私もそれを見ていましたが、30分ほどで宿舎に引き揚げました。つるし上げは続き、その日のうちに副校長は亡くなった。後に遺族に見せてもらったのですが、腕時計は午後3時40分で止まっていた」
――なんでそんなことが起きたのでしょうか。
「多くの生徒が、こんなことは間違っていると心のなかでは思っていたのではないでしょうか。学校の先生を打倒して、しかも殺してしまうなんて、正しいわけがない。中国の長い歴史を見ても、そんなことはかつてなかった。でも、口に出すことはできなかった。何か言ったら自分がどうなるか分かりません。現実はひどく残酷でした」
――言いにくいですが、ある意味では、その場にいた全員が消極的な加害者だったのでしょうか。
「旧ソ連の共産党第1書記だったフルシチョフは『沈黙は賛成だ』と言ったとされます。誰も暴行を止めなかった。でも文革のとき、多くの中国人には何の選択肢もなかった。それも事実です。私はひたすら数学の勉強をしていました。その日も闘争会を抜け、数学の本を読んでいた」
「文革で迫害されて死んだ人の多くは知り合いに殺されました。迫害される人は増え続け、加害者は次々と被害者に変わった」
――党幹部の子どもたちが多い名門校だったそうですね。
「確かに有名校です。生徒の半数は高官子弟でした。国家主席だった劉少奇の娘や、トウ小平の娘もいました。文革の最初のころは教師を批判する立場でしたが、文革が進むと、彼女らの親が批判されました。ご存じの通り、劉少奇は迫害で亡くなり、トウ小平は失脚して地方に飛ばされました」
――ご自身も文革中に下放(かほう)されました。
「私の両親は教師でしたが、父親が迫害を受けました。私は16歳で、2歳下の妹と一緒に雲南省の農村に送られました。ひどい生活です。森林を切り開き、ゴムの木を植えました」
■ ■
――文革が終わって大学入試が再開され、北京大学の中国文学部に合格します。そして徐々に文革でいったい何が起きたのかを調べ始めました。なぜですか。
「私の調べた北京の学校10校で66年8月だけで校長3人と教師3人が迫害によって亡くなりました。しかし、校史には何の記載もありません。政府の発表にも被害者の細かな史実はありません。でも、そんなのはおかしい。死者には一人ひとり、名前がある。当時、必ず誰かが見聞きしていたはずです。単なる数字ではなく、すべての死者が尊重されるべきではないでしょうか。そのためにはまず、すべての死が記録されなければならない。そう思いました」
――調査はどのように行ったのですか。
「政府や学校は資料を公開してくれないので、関係者の証言を一つひとつ積み上げていくしかありませんでした。殺された副校長の夫らに会いにも行きました。最初は信用してもらえず、話も聞けませんでしたが、私が文革について書いた文章を見せた後、大量の資料を提供してくれました。私は600人を超える死者の個人史をまとめ、香港で出版しました」
■ ■
――共産党政権が調査行為を歓迎するとは思いません。証言を得るのは難しかったのでは。
「難しかったけど、多くの人が協力し、証言してくれました。その数は1千人以上に上ります。ただ、『自分が言ったとは絶対に言わないで欲しい』と頼まれることが何度もありました。だから、誰が誰を殴ったのかとか、どこまで公表するか悩んだ部分もあります」
「一方で、だれが私の母校の副校長を殺したかは今も分かりません。その場には多くの人がいたのに、証言がない。まだまだ埋もれた事実がたくさんあると思っています」
――証言を阻んでいるものは何ですか。
「みんな圧力を受けているのです。何も言うなという圧力です。私は米国にいるのに、なんで中国のイメージを悪くするようなことを発表するのかと、中国人から批判が来ます。大学に直接来て文句をいう人もいます」
――それは自らの加害行為を認めたくない中国人たちの圧力ということですか。
「南京大虐殺を調べる学者は支持され、募金の呼びかけもあるのに、文革を調べる学者は調査をやめろと言われる。同じように中国人の死について調べているのにですよ。ダブルスタンダードと言われても仕方ないですよね。すべての歴史に対し、事実は事実として認めるべきだと思います」
「それでも希望を感じるのは圧力があるのに、私に連絡をしてくる人が存在するということです」
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――2013年ごろ、中国で当時の紅衛兵が自らの行為を謝罪する動きが出ました。これまでになかった文革での「加害」への自意識です。どう受け止めましたか。
「外相などを歴任した陳毅の息子の謝罪のことですね。彼は紅衛兵として文革時に自分が教師を批判したことを謝罪した。それ自体はいいことですが、詳細については語っていません」
「きちんと事実に向き合わない人も多い。例えば、私の学校の紅衛兵の『親玉』として有名だった女性は『副校長を守れなかった』ことにおわびをしました。でも、それは違う。直接に手を下したかどうかは別として、そうした状態をつくるのに彼女たちは関与したのではなかったのか」
――自らの加害に向き合うという行為は難しいですね。
「彼女をはじめとする紅衛兵たちが、毛沢東と天安門で『謁見(えっけん)』したのが66年8月18日。その意味は極めて重いと思います。これを機に、つるし上げ行為がさらに過激化しました。北京では8月下旬から9月にかけて、1772人が殺されている。異常な状態が生まれたのでしょう。私の学校では教師以外に食堂の従業員が紅衛兵たちにつかまって殺されていたことなども分かりました」
――明らかに事実と異なることを言って、加害行為を認めない人もいますね。
「自らの発動によって数百万人への迫害があったのに、その罪を死ぬまで認めない党幹部もいました。芥川龍之介の『藪(やぶ)の中』のようです。いろんな人が文革について、あるいは文革のなかの一つの事件について別々のことを言っている。真実に向き合いたくない心理があるのかもしれません」
――習近平(シーチンピン)体制になって、教科書の文革についての記述が大幅に後退しました。
「ジョージ・オーウェルの『1984』には『過去を支配する者は未来まで支配する。現在を支配する者は過去まで支配する』との言葉が出てきます。まさにその通りです。誰かが勝手に私たちの過去をコントロールしないように、歴史の真実を明らかにし続ける必要があります。自分の未来は自分でつくらなければなりません」
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ワンヨウチン 1952年、北京生まれ。中国社会科学院を経て米スタンフォード大学客員助教授を務めた。近著に「文革受難死者850人の記録」(集広舎)など。
■取材を終えて
多くの中国人にとって、文革の歴史は「被害」の記憶のなかにある。しかし、その一人ひとりの史実を追っていくと、「加害」の事実が重なる。王友琴さんの調査は、そんな中国人の複雑な感情を微妙に刺激しているようだ。
これは私たち日本人にも有効な問いかけかもしれない。
かつてシベリアに抑留された詩人石原吉郎は「〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる」(「望郷と海」)と書いた。「ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮(さつりく)されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ」と。
多くの日本人にとって、先の戦争の記憶は被害のなかにある。しかし、侵略を受けた国の人々から見れば加害者の顔だろう。この事実を私たちはどれだけ意識しているのか。そんな視点にも気づかされる。(論説委員・古谷浩一)
◆キーワード
<文化大革命> 1966年、党指導部内の権力闘争を背景に、毛沢東主席の主導で発動された大規模な政治運動。紅衛兵による暴力的なつるし上げ行為が各地でエスカレートし、社会が混乱。被害を受けた人は1億人に上るとも言われる。76年に毛の死去で終結。共産党は81年の「歴史決議」で「大きな災難をもたらした内乱」と位置づけた。文革時に10代だった習近平国家主席も父親が地方に飛ばされ、自らも陝西省の農村に下放されている。
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