靖国神社の歴史

靖国神社の歴史。

朝日新聞編集委員・藤生明さん

令和元年の今年、靖国は創立150年を迎え、境内の大がかりな改修が進められている。その歴史をひもとく。
■どんな人が祭られているのか
 靖国神社の起源は1869(明治2)年6月29日創立の東京招魂社にさかのぼる。幕府側と戦った官軍は、すでに各方面で戦死者を祭る招魂祭を執り行っていて、戦没者の名簿作成は素早かった。社頭の「参拝のしおり」は創立の由緒をこう記す。「当時は大変革期で、不幸な戦いを生み、尊い命が失われた。明治天皇は国のため一命を捧げられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと招魂社を創建された」
 靖国神社に改称されたのは1879年。社号は「国を靖(安)んずる」という意味で、中国の古典「春秋左氏伝」からとった。楠木正成を祭る湊川神社や、和気清麻呂が祭神の護王神社と同じ、勤皇忠死、顕著な功績のあった人臣を祭る別格官幣社に列せられた。
 「祭神」は幕末の1853年以降、太平洋戦争までの国内外の戦いで犠牲になった約246万柱。「しおり」では「軍人ばかりでなく」とし、坂本龍馬や吉田松陰、従軍看護婦、学徒動員の学生など、軍属や民間人も祭ると列挙している。
 さらに、当時日本人として出征した台湾、朝鮮出身の戦没者、シベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、戦争犯罪人として処刑された人々の神霊が一律平等に祭られていると記している。
 「しおり」にはないが、靖国には御霊(みたま)が鎮座する座が二つある。すでに述べた一般戦没者の御霊の座と、もう一つは皇族の北白川宮能久(よしひさ)親王と北白川宮永久(ながひさ)王の御霊を祭った座だ。
 一方で、維新期の内乱で賊軍とされた会津白虎隊や上野彰義隊、西南の役で敗軍の将となった西郷隆盛らは祭られていない。
 「神々の明治維新」などの著作を残した安丸良夫・一橋大名誉教授(日本思想史)は生前、「近代日本の神社神道は国家によってつくり出されたイデオロギー的装置。靖国神社はとりわけ軍国主義・国家主義と結びついた特異な存在だった」と指摘した。朝廷・官軍側、その後は日本軍側の死者だけが祭神となっていることについて、安丸氏は「中世には仏教の怨親(おんしん)平等思想があり、敵方の死者も『平等』に供養する伝統があった。靖国神社はその思想と正反対の原理に立脚している」と述べた。例えば高野山には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わった島津義弘・忠恒父子の建てた「高麗陣敵味方供養碑」が残る。
 2016年、亀井静香氏らは西郷ら賊軍合祀(ごうし)を求めて徳川康久宮司(当時)と面会したが、話は進まなかった。ある靖国関係者は「賊軍合祀は明治天皇のお考えに反する」と譲らない。靖国は国(天皇)のために命を捧げた将兵を祭る社だからだ――という。

■戦前、特別扱いだった靖国神社
 外交問題として焦点があてられがちな「靖国問題」。だが中曽根政権の公式参拝までは、もっぱら政教分離をめぐる国内の憲法問題であった。原点は、連合国軍総司令部(GHQ)による「神道指令」と、宗教法人の選択にある。
 国家主義の研究で知られた堀幸雄・元愛媛大教授は戦前の靖国が果たした役割の変遷をこう指摘する。
 「当初は鎮魂が主だった。やがて慰霊、顕彰へと発展し、戦死者を『神』とすることで、国民に戦死を肯定し受け入れさせる役割を果たした」
 遺児を靖国の父に会わせよう――。そんなかけ声のもと、1939年夏に戦没者遺児の集団参拝が始まった。全国の小学6年生1325人が集合。日比谷公会堂で式典に臨み、皇后陛下からお菓子を下賜(かし)された後、靖国に参った。遺児参拝は翌年から春の恒例になった。
 少女の作文が残る。神戸から夜行列車で東京駅に到着。「神様の子であるから遺児隊に対して一堂脱帽」と出迎えられ、大人の対応に感激したようだ。少女は「ひとしおのありがたさを感じました」と記した。
 靖国神社は行政組織上でも特別だった。戦前は神社神道自体が国の保護を受けた公的な存在で、神社神道は内務省(のち神祇(じんぎ)院)が所管した。仏教など諸教は文部省管轄。さらに靖国神社はいずれにも属さず、陸海軍が管理した。終戦時の宮司は鈴木孝雄・陸軍大将だった。
 米軍占領下、靖国はその特殊性ゆえ、苦しい立場に置かれた。「軍国主義の象徴」としてGHQに敵視され続けたからだ。
 45年12月15日、いわゆる「神道指令」がGHQから日本政府に提示された。国家神道を廃止し、国家から神社神道を切り離すよう命じる覚書だった。
 「神社本庁史稿」によると、当時の米国務省文書には「靖国神社は宗教的信仰の場ではなく、国家主義神社だ。日本政府も『国家神道は宗教ではなく、愛国精神の発露だ』と主張している。だから、信教の自由を侵さず、閉鎖しうる」と記されていたという。
 戦争のルールを定めたハーグ陸戦条約は、敗戦国側の信教の自由を保障している。靖国が宗教である限り、GHQも手荒なまねはできないはずだ。だが、終戦の混乱期、靖国側では、祭祀(さいし)のみを目的とする「祭祀法人」新設や財団法人への移行が検討された時期もあった。
 結局、財団法人や祭祀法人となれば条約の適用外となって、国務省文書の示すとおりに廃止が強行されかねない。そんな懸念を強め、改正宗教法人令の施行前後、やむなく一宗教法人として生き残りを選んだ。
 現在は宗教法人法の下、靖国神社は仏教、キリスト教などと同列に扱われている。戦前のような特別扱いはなくなった。明治憲法が「信教の自由」を保障しながら有名無実化した教訓から、新憲法には信教の自由を支える「政教分離原則」が盛り込まれたからだ。

■保守回帰が叫ばれた時代
 靖国神社の南、約1キロにある千鳥ケ淵戦没者墓苑。無宗教の国立施設は1959年3月28日に完成した。この日、昭和天皇・皇后両陛下が参列して戦没者追悼式が営まれ、岸信介首相や、英米など7カ国の大使が墓前に花を捧げた。
 建設のきっかけは復員兵らが持ち帰った戦友らの遺骨だ。国の遺骨収集事業も始まった。仮安置した厚生省は手狭になり、納骨施設の必要性が叫ばれた。
 52年、吉田茂首相が音頭をとって、全日本無名戦没者合葬墓建設会が発足した。当初、予定地は皇族墓所隣接の東京・豊島岡だった。諸外国の「無名戦士の墓」に相当し、外国の要人が訪ねられる施設が目標とされた。
 議論は二転三転。56年12月の閣議で千鳥ケ淵の賀陽宮(かやのみや)邸跡地に決まった。しかし建設会が意図した、外国の要人が訪れるような施設にはならなかった。
 もくろみが外れたのは、靖国神社や遺族会の反対の声が根強かったためだ。「戦没者追悼の中心的施設である靖国神社を形骸化(けいがいか)させるものだ」と主張した。
 靖国はこの時期、戦前のような特別な地位を取り戻そうと、運動を本格化させていた。日本遺族厚生連盟(日本遺族会の前身)の大会(52年)で、「靖国の慰霊行事は国費をもって支出する」旨を決議。4年後には、靖国の国家管理をめざす運動方針を決めた。
 靖国神社国家護持貫徹国民協議会(靖国協、約30団体=神社本庁、日本遺族会、生長の家、国柱会など)が結成され、靖国神社国家護持法案(靖国法案)が69年、初上程された。
 法案は8章39条。第2条で「靖国神社」の名称を用いるが、宗教団体と解釈してはならないと記す。さらに第5条で、靖国神社が特定の教義をもつこと、信者を教化することなど、宗教活動の禁止を明記した。
 そのうえで、新たに設立する法人の理事長人事や業務計画、財産処分は総理大臣の許可を必要とし、第32条で国・地方公共団体による神社行事などへの補助金支出に道を開こうとした。
 保守回帰が叫ばれた時代だった。神話をもとにした明治期の紀元節復活をめざして、66年に「建国記念の日」が制定された。また「明治百年」に国民は沸いた。靖国法案も、保守回帰の勢いの中で成立が目指された。だが提出前の段階で仏教やキリスト教など約70教団が反対声明に賛同。法案は猛烈な反発を浴びた。
 「近代神社神道史」は「日本キリスト教協議会(プロテスタント)と新日本宗教団体連合会(新宗連)がその中心勢力で、他宗派にも呼びかけて反対陳情をくりかえした」と記す。
 戦時下に国家神道の圧迫を受けた側であるキリスト教、仏教、教派神道、新宗教などの信徒にとって、苦難の記憶は鮮明だった。
 法案は国会に5度提出されたが成立しなかった。
 靖国協は76年、「英霊にこたえる会」に組織がえし、国家護持一辺倒から首相の公式参拝実現へと運動方針の舵(かじ)をきった。

■外交問題になる首相の参拝
 実は戦後、多くの首相が靖国神社に参拝してきた。だが終戦記念日に参拝したのは、1975年の三木武夫氏が初めてだった。
 公用車を使わず、肩書を記帳せず、玉串料は私費。「私人」を強調した。
 三木氏が「私的参拝」を強調して以降、内閣は靖国参拝のたびに政教分離の関係について政府見解を問われることになった。
 80年、鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官は、国務大臣の資格で参拝することについて「違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」とする政府統一見解を発表した。
 それを変えたのは中曽根康弘政権だった。
 公式参拝に向け、官房長官の私的諮問機関を設置。参拝方法を選べば、国務大臣の資格でも違憲ではないとの見解を打ち出し、85年の終戦記念日に参拝した。
 中曽根首相は当日、「内閣総理大臣の資格で参拝した」とし、こう続けた。「長い間の習俗、社会通念に従った、憲法に反しない範囲のものだ」
 この公式参拝に対して、国内では首相の靖国参拝をめぐる政教分離関連の訴訟が相次いで起こされた。
 しかし、政府・与党の最大の読み違いは中国の猛反発だったと思われる。
 中国外務省は8月14日の定例会見で、中曽根首相の公式参拝予定にふれ、靖国神社に東条英機元首相ら戦争指導者が合祀(ごうし)されている点を問題視。「中日両国人民を含むアジア人民の感情を傷つけよう」と反対の意思表示をしていた。
 公式参拝後の強い批判に対し、金丸信・自民党幹事長は「(日露戦争の将軍)乃木希典(のぎまれすけ)大将や東郷平八郎元帥が祭られておらず、東条元首相がなぜ祭られているのか。私もおかしいと思う」などと中国の主張に一定の理解を示し、火消しに回った。
 東条元首相ら「A級戦犯」の合祀は、終戦から30年以上たった78年10月だ。時の宮司は松平永芳氏。「幕末四賢侯」の一人、福井藩主・松平慶永(春嶽)の孫で、その年の7月に宮司になった。講演録によると「東京裁判史観を否定しなければ、日本の精神復興は実現しえない」というのが信念だった。彼が宮司になって総代会の議事録を調べると、A級戦犯の合祀は既定路線であり、「時期は宮司預かり」と分かったといい、このため、早々に合祀に踏み切ったという。
 「靖国」が外交問題になって30年以上。宮司や遺族に対し、A級戦犯の分祀(ぶんし)や合祀の取り下げの働きかけはあったが解決には至らず。新しい国立追悼施設構想も止まったままだ。
 2013年10月、来日したケリー米国務長官らは、無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑に足を運んだ。外務省内には、前年に返り咲いた安倍晋三首相への「靖国参拝の自重を促すメッセージ」との受け止めが広がった。
 だが同年12月、安倍首相は靖国に参拝した。この参拝には中韓の反発に加え、米オバマ政権も「失望」を表明した。以来、首相の靖国参拝は途絶えている。

■止まった天皇の靖国参拝
 敗戦で国の形が大きく変わったとはいえ、天皇の靖国参拝は続いていた。
 1964年の終戦記念日には、政府主催全国戦没者追悼式が靖国神社外苑で開かれ、天皇皇后両陛下が参列した。参拝ではないものの、神社側は歓喜した。
 毎年開催となった初回63年の会場は日比谷公会堂。第2回の64年、靖国神社への変更は直前だった。これは強い反発を受け、翌年から日本武道館に変わった。
 天皇の靖国参拝は75年で止まった。なぜか。
 2006年、富田朝彦・宮内庁元長官が昭和天皇の発言を記した「富田メモ」の存在が明らかになった。逝去前年の88年、A級戦犯合祀(ごうし)について、「私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」と天皇が話したとメモにはあった。
 昭和天皇の胸中については、側近の徳川義寛侍従長らも同様の証言をしている。昭和史研究の秦郁彦氏は当時、「昭和天皇が靖国参拝をやめた理由が、A級戦犯合祀に対する不快感だったことは定説化しつつあった。今回のメモで、それが裏付けられたということだろう」などと述べた。
 一方、当時の南部利昭靖国神社宮司は「信憑性(しんぴょうせい)が確立しない中で、一方的に昭和天皇のお言葉と断定し、政治利用する意図的な報道で残念だ」と述べた。
 神社関係者には、今もメモの信憑性を問う声が根強い。例えば、「英霊にこたえる会」は14年1月の会報で、天皇参拝と78年のA級戦犯合祀の関連に否定的な見解を掲載。75年の三木武夫首相の「私的参拝」に始まる靖国参拝の政治問題化こそが途絶の理由と思われる、と結論づけた。そして、天皇参拝に道をひらくためには、A級戦犯の分祀(ぶんし)ではなく、「首相らが中韓の内政干渉に屈することなく公式参拝し、定着させることだ」と訴えた。
 「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成されたのは81年だった。目標は首相の公式参拝実現。初代事務局長である村上正邦・元自民党参院議員会長(86)によると、発会当初は、天皇参拝が滞っているとの問題意識は持っていなかったという。
 「そもそも英霊は首相ではなく、陛下にお参りしてほしいはずだ」と村上氏。首相参拝が天皇参拝の環境づくりを妨げているのなら、首相は参拝を控え続けたほうがいいとさえ言う。
 今回の参院選で、日本維新の会は「憲法9条議論の前提」として、殉職した自衛官らを追悼する国立施設の整備を盛り込んだ。
 相前後して話題になったのは、天皇や首相の靖国参拝を求める橋下徹・同党元代表らの意見だ。参拝のための環境づくりに、戦争指導者の分祀と靖国の国立化が必要と訴えた。
 ただ靖国側は「分祀できない」との立場で、「国の管理」にも宗教色の払拭(ふっしょく)などの制約から消極的だ。そもそも宗教法人の国立化には政教分離の壁がある。
 今年も8月15日が来る。令和の時代、靖国はどのような道を歩むのだろう。(

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