河野義行さんの近況
河野義行さんの近況。尊敬します。こんな人になりたい。
――事件のとき「松本市の会社員(44)」と報道された河野さんがもうすぐ古希なのですね。
「世の中から自分の足跡を消す作業を始めています。住所は知人にもあまり教えていません」
――事件を知らない人も増えています。あの夜、妻の澄子(すみこ)さんが口から泡を吹き、全身をけいれんさせているのを自宅で見たのですね。記憶は今も鮮明なのですか。
「ええ。彼女の苦しそうな顔を、リアルに覚えています」
――サリンは猛毒の神経ガスです。自身も被害に遭いましたね。
「死を意識しました。視力に異常が出て部屋が暗くなり、見るものの像が流れ始めて。ドッドッと幻聴も聞こえ、吐き気がして立っていられなくなったのです」
――被害に苦しむ中、長野県警からは容疑者扱いをされました。朝日新聞を含む報道機関も犯人視する報道をしてしまいました。
「警察からは『犯人はお前だ』『亡くなった人に申し訳ないと思わないのか』『早く罪を認めろ』と自白を強要されました。私が有毒ガスを発生させたかのような報道もなされ、世間は私を松本サリン事件の犯人とみなしました」
――サリンで脳にダメージを受けた澄子さんは、意識が戻らないまま14年後に亡くなりました。8人目の犠牲者になっています。
「彼女は、しゃべることも動くことも一切できませんでした。できたのは、悲しそうな顔を見せることと涙を流すことだけ。つらい状態の中、私や子どもたちを支えるために生きていてくれたようなものです。だから死は解放とも思えました。『よかったね、やっと死ぬことを許されたね。もう自由だよ』と声をかけました」
――報道による被害とは、どのようなものでしたか。
「逮捕もされず、まだ裁判も行われていないのに、一瞬にして犯人にされてしまいました。自宅には無言電話や嫌がらせの電話、脅迫の手紙がたくさん来ました。被害者の親戚を名乗る人から『お前を恨む。殺してやりたい』と書かれた手紙が来たこともあります」
「報道被害とは、報道機関だけではなく世間も相手にすることでした。不特定多数の人が敵になるので戦いようがない。私を支えたのは、妻と未成年の子どもたちを守らなければという思いでした」
――殺人者のぬれぎぬをいつかは晴らせると信じていましたか。
「事件の1週間ほど後、高校1年生だった長男に私は『世の中には誤認逮捕もあるし、裁判官が間違えることもある。最悪の場合、お父さんは7人を殺した犯人にされて死刑になるだろう』と言いました。もし死刑執行の日が来たらお父さんは執行官たちに『あなた方は間違えましたね。でも許してあげます』と言うよ、とも」
教団関係者の見舞いも受け入れた
――中学生と高校生だった3人のお子さんに、苦境をどう受け止めようと話したのですか。「子どもには『人は間違うものだ。間違えているのはあなたたちの方なのだから許してあげる。そういう位置に自分の心を置こう』と言い聞かせました。意地悪をする人より少し高い位置まで、許すという場所まで心を引き上げようということです。悪いことはしていないのだから卑屈にならず平然と生活しようとの思いでした」
――許すという行為が精神的な支えになっていたのですね。
「そうしないと家の中がどこまでも暗くなる状況でした。特定の宗教を信仰してはいません」
――翌95年には地下鉄サリン事件が起き、疑いの目は河野さんからオウムへと転じます。警察は河野さんを事件の「被害者」と扱い、メディアも謝罪しました。河野さんの中にオウムへの憎しみが芽生えても当然の状況です。
「悪人というレッテルが私からオウムへ貼り替えられたからといって『じゃあ私はこれからはオウムを憎めばいいのか』といえば、そう単純なものではありませんでした。事実その当時、刑事さんから『松本サリン事件の実行犯に極刑を望みますか』と聞かれて、私は『いえ、罪相応の罰でいいです』と答えています」
――病床の澄子さんへの教団関係者の見舞いを受け入れましたね。断らなかったのですか?
「断ったことはないです。実行犯ではない人たちでしたから。ただ、仮にその人が実行犯だったとしても、どうぞと言ったでしょうね。理解しづらいという声もありましたが、妻のためにという思いを大切にしたつもりです」
元オウム幹部が一斉に死刑執行された際、会見で「悲しい」と語った河野さん。被害者として異質に見える発言の真意についても聞きました。
「私がひとを呼び捨てにするのは、昔からの悪ガキ仲間などのよほど親しい人だけで、それ以外はすべて『さん』付けです。なぜかと言われるなら、『呼び捨てにするほど親しくないから』です」
――オウム関連の信者を町から追いだしたり、子どもを学校に受け入れなかったり……。信者を社会から排除する動きが高まったとき、河野さんはその風潮を批判しました。なぜそんな行動を?
「私自身が社会から悪とされ、排除された人間だからです。犯人扱いされたとき、私の友人は地元の有力者から『町から出ていけ』と言われました。結婚した私の親戚も嫁ぎ先から『犯人の親戚を家には置けないから離婚してくれ』と言われています。私にかかわるものが全否定されたのです」
「同じことが信者たちに降りかかっていました。信者だというだけで憲法が保障する居住の自由や教育の自由すら認めてもらえず、人権侵害が是認されてしまっていた。間違っていると思いました」
恨まないのは「損得の問題です」
――世間から見ればオウム擁護に見える行動です。孤立への不安や恐怖はなかったのですか。「私はもう、一度死んだ人間でしたから。松本サリン事件のあと、社会的に死んだのです」
――オウムの実行犯に対する恨みや憎しみの気持ちはない、とも発言してきましたね。しかし、家族に危害を加えたかもしれない人を人は許せるものでしょうか。
「確かに理解しにくいとも言われますが、まず、彼らが有罪であると裁判で確定したのはずっと後のことなのです。推定無罪の原則は大事であるはずです」
「病床の妻と子と自分の人生をどうやって少しでも充実させるか、私にとってはそれが大事な課題でした。事件前の元気だった家族に戻りたい、と願うことはできます。でも、どれだけ誰かを恨んでも憎んでも過去は変えられません。ならば人生の時計をちゃんと動かして前に歩いていった方がいい、と私は思いました」
「恨んだり憎んだりするという行為は現実には、夜も眠れなくなるほどの途方もない精神的エネルギーを要するものです。しかも何もいいことがない。不幸のうえに不幸を自分で重ねていく行為なのです。そんなことをあえて自分から選ぶ必要はないでしょう。ある意味、これは損得の問題です」
――昨年、元オウム幹部が一斉に死刑執行された際の会見で「(執行で)真実は分からないままになった」と語っていますね。
「麻原さんの裁判は否認裁判でした。本人が罪状を認めていなかったのです。そうした中、控訴審も行われぬまま結論が出されてしまった。真実がどうだったのか分かっていないと私は思います」
――同じ会見で、死刑が執行されたことへの感想を「悲しい」「さみしい」と語りました。執行は当然という空気の中、被害者の発言として異質に見えました。
「死刑囚だったオウム幹部のうち4人に私は拘置所で面会しています。実際に会って語り合った人たちが消えていってしまったことに悲しさとさみしさがあったので、そう言いました。本当はあのとき私は、できれば会見はせずに済ませたいとも思っていました」
――なぜですか。
「死刑を望んでいる被害者遺族もいるのを知っていたからです。そうした人たちと並ぶ形でそれに反するコメントをあえて出すべきではないと思いました。恨みたい気持ちは私にも理解できます」
「でも、死刑は命を軽視した制度です。人は間違うからです」
――波瀾(はらん)万丈の半生ですね。
「事態を改善する努力はする、でもどうしても変えられないことは周りが驚くほどあっさり『しょうがないな』と受け入れる――私にはそういう傾向があるようです。10年に1回ずつ、自分はこれで死ぬのだなと思う体験を重ねてきたせいかもしれません。10代のときは破傷風を患って、20代と30代ではそれぞれ大きな交通事故で、40代ではサリン事件で」
――この先の人生、河野さんにとっての楽しみは何ですか。
「穏やかに人生を終えていければいい。それが今の願いです」(聞き手 編集委員・塩倉裕)
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