屁理屈

ぼくがまだ子供の頃、小学校の低学年の頃に、父から「理屈っぽい」とか「屁理屈」みたいに言われた記憶がかすかにある。

それを思い出したのは、神戸の小学校の教師たちのいじめ事件。有給休暇を行使して謹慎させている4人の教諭が今でも給料をもらっていることに対する市民感情云々とかで、新たに条例を作って、給料の支払いを止めることにした……という記事を読んだからなんだけど、間違っている。

解雇されるまでは給料を貰う権利があるし、有給休暇を使うのも同じ。彼らが問われるべきなのは、暴力・嫌がらせ行為。障害事件として警察が動くべきことなのに、学校内では暴力が「指導」になり得る不思議な社会。

「論理的であること」の定義の1つは、「逆の立場になったらどうだろうか」と想像し、他者の要求を傾聴し、よって自分の要求のレベルを落とし、妥協し、合意点を探すこと。

めんどくさい。時間もかかる。でも、日本は論理を避け、他者よりも上位の位置につき、他者を支配することを望む人たちばかり。いや、日本だけじゃない。資本主義自体がそうできている。

他者の気持ちを想像することのないここには、論理はないかもね。初めて論理的であることの美しさに触れたのはアメリカで学生になったときだったけど、それを美しいと感じたのはぼくのそれまでの生活が論理的じゃなかったから。理不尽でもあり、辛くてしょうがない日々だったから……

みたいなことを書き溜めて、ぼくが死んだあとも、ぼくや、もうとっくに死んでいる兄や、しばらくすれば死ぬであろう母や、いちばん思い出す頻度の少ない、とっくの昔に死んでいる父や、何やかや 、一切合切の人たちもが精密に編まれたプログラムのように連動していることを、ぼくは証明するだけ。

で、4人が陰湿ないじめを続けたのにも理由がある。4人の行動を引起した4人の思考は、ぼくらの生きる社会としっかり繋がっている。



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