栗原はるみさん、夫に依存していた。
朝日から:
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ベリーグッド、まこといい――。料理家の栗原はるみさん(72)は、夫玲児さんのこんな言葉を励みにレシピを届けてきました。肺がんが見つかった夫を半年間看病し、自宅で看取(みと)ったのは昨年8月。享年84でした。ふとした瞬間に涙がとまらなくなる日々が続いています。今向き合っている孤独、そしてやっと少しだけ見えてきた道について、率直に語ってくれました。
■体重5キロ減 抜け殻みたいに
人はいつか亡くなる――。このことは理解していたはずなのに、喪失感は壮絶でした。
46年連れ添った夫がいなくなってしまい、眠れず、食欲がわかず、体重は5キロ減りました。泣き過ぎて、自分の顔ではないみたいに変わってしまって。こんな自分は嫌なのに、なかなか悲しみから抜け出せない日々です。そんななかでも、すでに受けていた仕事は、家族、友人、スタッフの皆に支えられて何とかやり続け、やっとここまで来た感じです。
あるとき息子が「抜け殻みたい。おやじに依存していたんだね」って言ったんです。その言葉で、私は自分が夫に精神的に依存していたことを初めて自覚しました。
「僕を待つだけの女の人にならないでほしい」。私が料理家になったきっかけは、彼のこんな言葉でした。26歳で結婚。古風な母に育てられた私は、夫の帰りを待っていた。彼は気詰まりだったんでしょうね。当時はテレビ番組の司会などをしていて帰りが遅くてね。そんな私に「自由でいてほしい。自分のやりたいことを探して」って言った。
遺品を整理していて、その頃の私が書いた玲児さんへの手紙を見つけました。そこには「料理について、自分に何ができるか考えます」とありました。
手紙の後、私は料理番組の裏方の仕事を始めました。3年ほど続けていたら、創刊したばかりの人気女性誌が、十数ページの特集で声をかけてくださった。そこに載った「サバのそぼろ」がとても好評で、料理家の道が開けました。
彼がプロデューサーのような立場で一緒に会社をつくり、それからは公私ともに時間を共有してきました。買い出しは2人で出かけ、洋食は彼から習いました。
料理について、息子や娘の意見も重視したけど、特に彼の意見を大事にしていました。おいしければ「ベリーグッド」「まこといい」「たいしたもんだ」。ダメな時は「まずい!」って率直に言ってくれたから。「ええ? そんなにまずいかな」と思う時もあったけど、この人はどうしてこう言うのだろうか、と試作しながらよくよく考えると、言った意味が分かる。そういう存在でした。だから試作もたくさんできて、良い本もできたと思います。
毎年400のレシピを考案して、いわばバリバリ仕事をしているから、自分のことを自立した人間だと思っていました。でも、そうじゃなかった。夫に依存していたんですよね。自分でも驚くほど。
■友人たちに「はるみを支えて」
夫に小さな肺がんが見つかったのは2018年6月。心臓にペースメーカーを入れていたので、定期的に通院している中で見つけてもらいました。通院で放射線治療などを受けて寛解状態に。発達した医療の恩恵で、きちんと治るんだなと、ほっとしました。
でも半年後に再発したのです。
主治医から伝えられたとき、夫は若い頃からヘビースモーカーだったからなのか、冷静に「余命はどれくらいですか?」と聞きました。「半年から1年」と告げられると、すぐに延命治療はしない、入院もせず最期まで自宅で過ごすと決めました。
がんは治る人もたくさんいます。でも、私の周囲にがんで亡くなった人もいたので、再発と聞くと、やはり「死」を連想して恐ろしかった。
年を越して2月22日、主治医から「長くて1年」だと最終の余命宣告を受けました。当時は食欲もあり、よくしゃべって、いつも通り元気でした。
だから私は余命告知を受けても、「でも高齢だと進行は遅いはず」と、心のどこかで死を考えないようにしていました。
私たち夫婦は、どちらが先に逝くことになっても、住み慣れた自宅で最期までふたりで過ごそうと決めていました。
自宅は1階がキッチンスタジオと庭。2階が居住スペースです。10年ほど前、その2階をワンルームに改装。介護に備え、トイレもお風呂も広くしました。床はタイルにして、清潔さを重視。お風呂の前のベランダには、ブルーベリーとミカンの木を植えたりして。鳥もやって来るので、彼は喜んでいました。
私は、家族と数人のスタッフ以外には、夫の病のことは伝えませんでした。人に気を使わせながら仕事をしたくなかったのです。
告知後の3月、毎年友人を招き開いている私の誕生日会で、彼が珍しく自分からスピーチをすると言い、皆さんの前に立ちました。
「うちのはるみは、本当によく仕事をしました。46年良い女房でございます。欲張りで申し訳ありませんが、どうかこれからも、はるみを支えて頂きたい」
いつになく褒めてくれて。それ以降、夫は家族以外には誰とも会いませんでした。皆さんにお別れをしたのだと思います。
■毎晩のように離別の恐怖が
「おーい」「ねぇ」
夫は声が出せるうちは、こんな風に1階で仕事をする私を呼んでいました。私はダッシュで階段を駆け上り彼の元へ。「君は速いなぁ。元気だなぁ」って穏やかに言う。私は飲ませたり、食べさせたり、下の世話をしたり。彼はいつも「すまないね。ありがとう」って言っていました。私は両親や祖母の介護で慣れていたし、下の世話も嫌じゃなかった。むしろ手際よくできました。だって、人間は生き物だから、機能が落ちて、自分の身の回りのことができなくなるのは、自然なこと。
彼が大きな声が出せなくなってからは、ボタンを押すと1階で音楽が鳴るようにしました。ベートーベンの交響曲第九「歓喜の歌」なんかです。心が沈まないように工夫しました。
「考えあぐねて、でも死をすべて受け入れたから。だから安心して」
余命宣告から1カ月ほどたった頃、いつも通りソファで2人でくつろいでいる時、彼がそう言ったんです。
私は「恐れや葛藤は言ってくれていいんだよ」って言ったのですが、彼は「君を苦しめるから」と一切口にしなかった。
亡くなる半月前くらいまで、古今東西のミステリーや恋愛・歴史小説、言語学の本、辞書などを読みふけり、世界中を旅したように心は自由さを保っていました。おしゃれ好きで、最期の衣装も、お気に入りのシャツとパンツを自分で決めていました。
恐ろしいほどお医者さんが言った通りに、徐々に、彼が自分でできることが少なくなっていきました。
最後の1カ月くらいは、お風呂に入れなくなり、シャワーも難しくなり、寝込むようになり、ご飯が食べられなくなり、水も飲めなくなって。
私は毎晩ベッドに横になるときに、離別の恐怖に襲われました。彼の寝息を聞きながら、「ああ、明日起きたら、もういなくなってしまっているかもしれない」って。怖くて怖くて、ほとんど眠れませんでした。
昨年8月3日に息を引き取りました。
私としては精いっぱいのことをしたし、看取れたのですから、ありがたいと思うべきだという気持ちもある。
なのに今も「彼は安心して逝ったんだろうか?」と問うてしまう。覚悟や達観なんて、できるものだろうかって。死を受け入れる作業は大変なはずです。彼は「ありがとう。君と一緒で良い人生だった」としか言わなかったけど、本当のつらさをひとりで抱え過ぎていたのではないだろうかって。そう思う気持ちが消えません。
家族って、本人と同じようには死への恐怖や葛藤は理解できない。だから、できるだけいつも通りの生活を整え、好物のメロンを探し歩き、希望をかなえることしかできなかった。やっぱり切ないですよね。
そんな思いにかられる時、残してくれた手紙が私の糧になっています。
「遅くまでおつかれさま。楽天田中、負けたのでふて寝する」
「はるみ殿、全部とてもおいしかった。食べ過ぎるのが困るね」
私が仕事で遅くなった時には、こんな手紙がキッチンのカウンターに置いてありました。
感謝の言葉は常に伝え続けてくれた。外国人のような人ですよね。私は「こういうのが好きな人なんだなぁ」と思うくらいで、返事を書いたことはなかった。数年前にふと、これは貴重なことでは?と思い始め、ほほえましいものを残すようになりました。でも、今は手紙を直視できません。まだ現実の死を認めたくない気持ちがあるからかもしれません。
亡くなった後に棚で見つけた革張りのノートは特に私の支えになってくれています。余命宣告後には、3回に分けて私に宛てて感謝の言葉がつづられていました。3回目のメッセージは短かった。多分体調が悪かったんですよね。
■喪失感に沿うような言葉はない
夫が亡くなった後に一番学んだのは、「大丈夫?」という言葉の使い方ですね。言われると、大丈夫じゃないけど、「ありがとうございます」って言い続けていました。
大丈夫、大丈夫と言い続けていると、切なくなってきてね。卑屈になったり、元気な人がうらやましくなったり。
相手の気遣いも理解できます。でもやっぱり、この喪失感に沿うような言葉はないんですよね。体験して初めて分かりました。私もそれまで大切な人を亡くした方に「大丈夫? いつでも連絡して」って言ってたから、謝れる人には謝りました。あの時はごめんなさいねって。言葉には気をつけよう、その人それぞれに合った言葉をかけなきゃって、反省しきりです。
ありがたかったのは、「ごはん行こう」と言ってさりげなく気晴らしに誘ってくれたり、映画を一緒に見たりしてくれたこと。大丈夫?とは決して聞かないのに、絶妙な間でメールをくれたり、誘い出してくれたりしたさりげない心遣いでした。
信頼できる友人の家で、わんわん泣いたことにも随分救われましたね。悲しみはまだ続いていますけど、我慢しすぎず、押し寄せたり貯(た)まったりしたら、外に出した方がいいと思います。
昨年12月ごろから、やっとふたつの道が頭の中で見えました。悲しく泣いてばかりの道。そして、元気を出そうという道。
こんな風に考え始めました。
玲児さんは、長患いしないように早く逝ってくれたんだ。一緒にいたかったけれど、最高のプレゼントだと思うようにする。私のためにそうしてくれたのだから、時間を無駄にしてはいけないと。
ただ、孤独と向き合うのは大変です。玲児さんに代わる人なんていない。半身を失ったような空虚さを、まだ制御できていません。初めてのひとり暮らし、平日は仕事があるのでまだいいのですが、夜と休日がね。
でも、何とか自分で立ち上がりたい。ハワイの大学で和食を教える仕事を再開しようかとか、前向きなことを考える努力をしています。今年は、たくさんの仕事を頂いていますし。
人はひとりでは生きていけない。だから頼れる力を持つことも大切だと思います。依存って、悪いことではない。でもひとりになってみて、一番近い人たちが、どんなに優しくしてくれても、助けてもらい続けることなんてできないと思うんです。だからやはり、基本は「個」でいられるたくましさを身につけなきゃ、と。
「今一番大事なことは、過去ではなく今とこれから」。ずっとこう思って生きてきました。まだ日々気持ちが揺れていますが、前を向いて生きていきたいです。
喪失感はそれぞれ違うけれど、大切な人を失った人にとって、何かしら役に立つことがあればと、私の経験をお話しさせていただきました。(聞き手・山内深紗子)
◇
くりはら・はるみ 1947年静岡県生まれ。26歳で栗原玲児さんと結婚。長女友さん(44)、長男心平さん(41)はともに料理家。家族のための日常の料理作りが、幅広い年齢層から支持を得て、人気料理家に。料理本「ごちそうさまが、ききたくて。」はミリオンセラー。2005年には海外向けに出版した「Harumi's Japanese Cooking」が、料理本のアカデミー賞とされる「グルマン世界料理本大賞」のグランプリを受賞。
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ベリーグッド、まこといい――。料理家の栗原はるみさん(72)は、夫玲児さんのこんな言葉を励みにレシピを届けてきました。肺がんが見つかった夫を半年間看病し、自宅で看取(みと)ったのは昨年8月。享年84でした。ふとした瞬間に涙がとまらなくなる日々が続いています。今向き合っている孤独、そしてやっと少しだけ見えてきた道について、率直に語ってくれました。
■体重5キロ減 抜け殻みたいに
人はいつか亡くなる――。このことは理解していたはずなのに、喪失感は壮絶でした。
46年連れ添った夫がいなくなってしまい、眠れず、食欲がわかず、体重は5キロ減りました。泣き過ぎて、自分の顔ではないみたいに変わってしまって。こんな自分は嫌なのに、なかなか悲しみから抜け出せない日々です。そんななかでも、すでに受けていた仕事は、家族、友人、スタッフの皆に支えられて何とかやり続け、やっとここまで来た感じです。
あるとき息子が「抜け殻みたい。おやじに依存していたんだね」って言ったんです。その言葉で、私は自分が夫に精神的に依存していたことを初めて自覚しました。
「僕を待つだけの女の人にならないでほしい」。私が料理家になったきっかけは、彼のこんな言葉でした。26歳で結婚。古風な母に育てられた私は、夫の帰りを待っていた。彼は気詰まりだったんでしょうね。当時はテレビ番組の司会などをしていて帰りが遅くてね。そんな私に「自由でいてほしい。自分のやりたいことを探して」って言った。
遺品を整理していて、その頃の私が書いた玲児さんへの手紙を見つけました。そこには「料理について、自分に何ができるか考えます」とありました。
手紙の後、私は料理番組の裏方の仕事を始めました。3年ほど続けていたら、創刊したばかりの人気女性誌が、十数ページの特集で声をかけてくださった。そこに載った「サバのそぼろ」がとても好評で、料理家の道が開けました。
彼がプロデューサーのような立場で一緒に会社をつくり、それからは公私ともに時間を共有してきました。買い出しは2人で出かけ、洋食は彼から習いました。
料理について、息子や娘の意見も重視したけど、特に彼の意見を大事にしていました。おいしければ「ベリーグッド」「まこといい」「たいしたもんだ」。ダメな時は「まずい!」って率直に言ってくれたから。「ええ? そんなにまずいかな」と思う時もあったけど、この人はどうしてこう言うのだろうか、と試作しながらよくよく考えると、言った意味が分かる。そういう存在でした。だから試作もたくさんできて、良い本もできたと思います。
毎年400のレシピを考案して、いわばバリバリ仕事をしているから、自分のことを自立した人間だと思っていました。でも、そうじゃなかった。夫に依存していたんですよね。自分でも驚くほど。
■友人たちに「はるみを支えて」
夫に小さな肺がんが見つかったのは2018年6月。心臓にペースメーカーを入れていたので、定期的に通院している中で見つけてもらいました。通院で放射線治療などを受けて寛解状態に。発達した医療の恩恵で、きちんと治るんだなと、ほっとしました。
でも半年後に再発したのです。
主治医から伝えられたとき、夫は若い頃からヘビースモーカーだったからなのか、冷静に「余命はどれくらいですか?」と聞きました。「半年から1年」と告げられると、すぐに延命治療はしない、入院もせず最期まで自宅で過ごすと決めました。
がんは治る人もたくさんいます。でも、私の周囲にがんで亡くなった人もいたので、再発と聞くと、やはり「死」を連想して恐ろしかった。
年を越して2月22日、主治医から「長くて1年」だと最終の余命宣告を受けました。当時は食欲もあり、よくしゃべって、いつも通り元気でした。
だから私は余命告知を受けても、「でも高齢だと進行は遅いはず」と、心のどこかで死を考えないようにしていました。
私たち夫婦は、どちらが先に逝くことになっても、住み慣れた自宅で最期までふたりで過ごそうと決めていました。
自宅は1階がキッチンスタジオと庭。2階が居住スペースです。10年ほど前、その2階をワンルームに改装。介護に備え、トイレもお風呂も広くしました。床はタイルにして、清潔さを重視。お風呂の前のベランダには、ブルーベリーとミカンの木を植えたりして。鳥もやって来るので、彼は喜んでいました。
私は、家族と数人のスタッフ以外には、夫の病のことは伝えませんでした。人に気を使わせながら仕事をしたくなかったのです。
告知後の3月、毎年友人を招き開いている私の誕生日会で、彼が珍しく自分からスピーチをすると言い、皆さんの前に立ちました。
「うちのはるみは、本当によく仕事をしました。46年良い女房でございます。欲張りで申し訳ありませんが、どうかこれからも、はるみを支えて頂きたい」
いつになく褒めてくれて。それ以降、夫は家族以外には誰とも会いませんでした。皆さんにお別れをしたのだと思います。
■毎晩のように離別の恐怖が
「おーい」「ねぇ」
夫は声が出せるうちは、こんな風に1階で仕事をする私を呼んでいました。私はダッシュで階段を駆け上り彼の元へ。「君は速いなぁ。元気だなぁ」って穏やかに言う。私は飲ませたり、食べさせたり、下の世話をしたり。彼はいつも「すまないね。ありがとう」って言っていました。私は両親や祖母の介護で慣れていたし、下の世話も嫌じゃなかった。むしろ手際よくできました。だって、人間は生き物だから、機能が落ちて、自分の身の回りのことができなくなるのは、自然なこと。
彼が大きな声が出せなくなってからは、ボタンを押すと1階で音楽が鳴るようにしました。ベートーベンの交響曲第九「歓喜の歌」なんかです。心が沈まないように工夫しました。
「考えあぐねて、でも死をすべて受け入れたから。だから安心して」
余命宣告から1カ月ほどたった頃、いつも通りソファで2人でくつろいでいる時、彼がそう言ったんです。
私は「恐れや葛藤は言ってくれていいんだよ」って言ったのですが、彼は「君を苦しめるから」と一切口にしなかった。
亡くなる半月前くらいまで、古今東西のミステリーや恋愛・歴史小説、言語学の本、辞書などを読みふけり、世界中を旅したように心は自由さを保っていました。おしゃれ好きで、最期の衣装も、お気に入りのシャツとパンツを自分で決めていました。
恐ろしいほどお医者さんが言った通りに、徐々に、彼が自分でできることが少なくなっていきました。
最後の1カ月くらいは、お風呂に入れなくなり、シャワーも難しくなり、寝込むようになり、ご飯が食べられなくなり、水も飲めなくなって。
私は毎晩ベッドに横になるときに、離別の恐怖に襲われました。彼の寝息を聞きながら、「ああ、明日起きたら、もういなくなってしまっているかもしれない」って。怖くて怖くて、ほとんど眠れませんでした。
昨年8月3日に息を引き取りました。
私としては精いっぱいのことをしたし、看取れたのですから、ありがたいと思うべきだという気持ちもある。
なのに今も「彼は安心して逝ったんだろうか?」と問うてしまう。覚悟や達観なんて、できるものだろうかって。死を受け入れる作業は大変なはずです。彼は「ありがとう。君と一緒で良い人生だった」としか言わなかったけど、本当のつらさをひとりで抱え過ぎていたのではないだろうかって。そう思う気持ちが消えません。
家族って、本人と同じようには死への恐怖や葛藤は理解できない。だから、できるだけいつも通りの生活を整え、好物のメロンを探し歩き、希望をかなえることしかできなかった。やっぱり切ないですよね。
そんな思いにかられる時、残してくれた手紙が私の糧になっています。
「遅くまでおつかれさま。楽天田中、負けたのでふて寝する」
「はるみ殿、全部とてもおいしかった。食べ過ぎるのが困るね」
私が仕事で遅くなった時には、こんな手紙がキッチンのカウンターに置いてありました。
感謝の言葉は常に伝え続けてくれた。外国人のような人ですよね。私は「こういうのが好きな人なんだなぁ」と思うくらいで、返事を書いたことはなかった。数年前にふと、これは貴重なことでは?と思い始め、ほほえましいものを残すようになりました。でも、今は手紙を直視できません。まだ現実の死を認めたくない気持ちがあるからかもしれません。
亡くなった後に棚で見つけた革張りのノートは特に私の支えになってくれています。余命宣告後には、3回に分けて私に宛てて感謝の言葉がつづられていました。3回目のメッセージは短かった。多分体調が悪かったんですよね。
■喪失感に沿うような言葉はない
夫が亡くなった後に一番学んだのは、「大丈夫?」という言葉の使い方ですね。言われると、大丈夫じゃないけど、「ありがとうございます」って言い続けていました。
大丈夫、大丈夫と言い続けていると、切なくなってきてね。卑屈になったり、元気な人がうらやましくなったり。
相手の気遣いも理解できます。でもやっぱり、この喪失感に沿うような言葉はないんですよね。体験して初めて分かりました。私もそれまで大切な人を亡くした方に「大丈夫? いつでも連絡して」って言ってたから、謝れる人には謝りました。あの時はごめんなさいねって。言葉には気をつけよう、その人それぞれに合った言葉をかけなきゃって、反省しきりです。
ありがたかったのは、「ごはん行こう」と言ってさりげなく気晴らしに誘ってくれたり、映画を一緒に見たりしてくれたこと。大丈夫?とは決して聞かないのに、絶妙な間でメールをくれたり、誘い出してくれたりしたさりげない心遣いでした。
信頼できる友人の家で、わんわん泣いたことにも随分救われましたね。悲しみはまだ続いていますけど、我慢しすぎず、押し寄せたり貯(た)まったりしたら、外に出した方がいいと思います。
昨年12月ごろから、やっとふたつの道が頭の中で見えました。悲しく泣いてばかりの道。そして、元気を出そうという道。
こんな風に考え始めました。
玲児さんは、長患いしないように早く逝ってくれたんだ。一緒にいたかったけれど、最高のプレゼントだと思うようにする。私のためにそうしてくれたのだから、時間を無駄にしてはいけないと。
ただ、孤独と向き合うのは大変です。玲児さんに代わる人なんていない。半身を失ったような空虚さを、まだ制御できていません。初めてのひとり暮らし、平日は仕事があるのでまだいいのですが、夜と休日がね。
でも、何とか自分で立ち上がりたい。ハワイの大学で和食を教える仕事を再開しようかとか、前向きなことを考える努力をしています。今年は、たくさんの仕事を頂いていますし。
人はひとりでは生きていけない。だから頼れる力を持つことも大切だと思います。依存って、悪いことではない。でもひとりになってみて、一番近い人たちが、どんなに優しくしてくれても、助けてもらい続けることなんてできないと思うんです。だからやはり、基本は「個」でいられるたくましさを身につけなきゃ、と。
「今一番大事なことは、過去ではなく今とこれから」。ずっとこう思って生きてきました。まだ日々気持ちが揺れていますが、前を向いて生きていきたいです。
喪失感はそれぞれ違うけれど、大切な人を失った人にとって、何かしら役に立つことがあればと、私の経験をお話しさせていただきました。(聞き手・山内深紗子)
◇
くりはら・はるみ 1947年静岡県生まれ。26歳で栗原玲児さんと結婚。長女友さん(44)、長男心平さん(41)はともに料理家。家族のための日常の料理作りが、幅広い年齢層から支持を得て、人気料理家に。料理本「ごちそうさまが、ききたくて。」はミリオンセラー。2005年には海外向けに出版した「Harumi's Japanese Cooking」が、料理本のアカデミー賞とされる「グルマン世界料理本大賞」のグランプリを受賞。
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