心の総体

今年だけで5名の精神障害者(鬱、双極性障害、統合失調症、解離性障害の単独、あるいは複合)、もしくはそれらしき人たちに紹介者を介して、あるいは直接会ったのですが、自分が目論んでいた「心の総体」に近づけたかというと、おそらく否。

例えば、双極の先天的患者と後天的患者の違いは体感することができたのですが、やはり、自分がいちばん解き明かしたい双極性障害の患者はもうとっくの昔に自殺していて、いまとなっては何も確かめられないのが現実です。

結局、他の人たちのことは心配しながらも、心の底の底では、自殺してしまった友達への愛情の半分もおそらくなくて、とどのつまり、病気に対する理解を深めるためだけに彼らに会うなり、SNSで交流をしていたのかもしれない……と思います。

ぼくの友達はおそらく後天的な双極。遺伝子にそれらしき欠損(というのは不正確な呼称だけど)は共通してあることはわかっても、先天v.s.後天のメカニズムはまだ解明されていない。まだ生きている既知の人たちの顔を思い浮かべると研究が進むことを切に願い、でも死んでしまった友達に思いを馳せると、彼女と彼女のお母さんとぼくの3人で、あるダイナー(ファミレス的な食堂)に食事にいった、奇妙な晩のことを昨日のことのように思いだします。

昔追悼文として(というか、彼女の家族も知らないエピソードだったりしたから)書いたのですが、いま見るとこれらの文章でいまでも残っているのはこれだけです。彼女のお姉さんがどこかに隠したのだろうと推測します……

自分自身を複数の想念が同時に進行する統合失調症的気質と思い込んでいたのだけど、意外と双極的かも…と思い始めています。鬱の回避の仕方が年々上手になってきたからか、躁の状態が目立なくなってきただけ、かも。

病の重い人ほど、自己肯定力がゼロに近い。他者に愛されなくとも勝手に自己を肯定すればいいと気づくのには、途方も無い時間がかかる。レイモンド・カーヴァーが最後に書いた詩がLate Fragmentというタイトルの詩ということなっていて、たぶん、それは嘘というか、最後に出版した詩集の最後の詩、という意味だと思うのですが、この詩を読んでぼくが思ったのは、「肺がんでいまにも死のうとしている患者が”愛されたい”と思うのか?」という驚きでした。対話形式のこの詩の質問者は配偶者のテス・ギャラハーで、回答者がレイ自身と想像できるかで感動の度合いは変わるけど、静かな感動のあるこの詩は好き。というか、レイモンド・カーヴァーはぼくにとっては詩人です(もちろん短編も好きだけど)。だから、親や周囲から愛されなかった人は不幸だけど、 時計は逆に戻せないから、「自己肯定」を文字通り、「自己が自己を肯定する」と捉え、どうしようもない自分だったとしても自分で褒めて、たたえて、そのあとは、部屋にこもるなりして勝手なことをすればいい。

今年初対面なのに膨大な情報量の話をとても効率よく早口で話す人がいた(双極2型の躁状態のように)。聴いていてとても楽しかった……何が問題なのか? 話も飛ばないし、理路整然としていた。しかし、自ら家族の話をしだし、しくしく泣き出す。いいじゃない、泣けば。しばらくして泣き止むけど、また泣き出す。周囲が話を聞けば、これを精神疾患としなくてもいいでしょ?……というのが、ぼくの今の論点。つまり、変わらなければいけないのは社会の方。泣き出したら、仕事を中断して、話を聴けばいいだけ。その程度の時間を割く生産性ぐらいあるはず。

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