フィル・コンドンとビル・キトレッジの話

フィル・コンドンのプロフィール、初めて丁寧に読んだけど、知らなかったことがたくさん。更新したのかな。 

 ビル・キトレッジが死んだらしい。RIPとあるから。

ミズーラでいちばん有名な作家は間違いなくビル先生だけど、フィルのように彼を「メンター」と呼ぶまでの思慕や恩義は、ぼくにはないかな。

ビルの思い出は2つ。キャンパスですれ違うと必ず声を掛けてくれて、どすの利いた声で「書いてるか!(Have you been writing?)」と。もうひとつは深夜のヒギンズ・アベニューをかなりひどい千鳥足でふらついていたのを見かけたこと。ダウンタウンの酒場に日常的に行ってたらしいけど、自分はぼろトラックで同じダウンタウンのシルバーダラー・バーに軽く飲みに行こうとしていて、ビル先生は(オクスフォード?からの)帰りだったんだろうね。引き返して、「ご自宅までお送りしましょうか?」と声を掛けようかとも思ったのだけど、ぜったい野暮。歩きながら、ぐだぐだと大事な思考しているのは明らか。ワークショップでビル先生がくれたアドバイスは普通によかったけど、その手の本を読めば書いてあるようなことばかりだったから、ここでは割愛。いちようRIP。

もうちょっと説明しないとね。日本でも訳書が何冊か出てます。ぼくが何年も前に翻訳・出版しようとした彼の傑作”Hole in the Sky"は、数社に提案したけど保留のままです。「帰ってきたオオカミ」がもう少し売れていたら、もしかしたら出せたかもしれないけど、この手のものはやっぱり売れないみたい。彼はやっぱり随筆家だと思う。フィクションの作家としては弱いと思う。文字通り、vulnerable。

あと、ビル先生の文章はちょい難しいから、自分にはちゃんと訳せなかったかもしれない。リック・バスの文体の方が自分は比較的近いと思う。晶文社の人がぼくのは「もうちょっと細くて弱い感じ」と評していて、言い得て妙だったのだけど、ビルの文体って、なんて言うんだろうか……うまく言えない。改めて書きます。訳すのはリック・バスよりはるかに難しいと思う。

村上春樹さんは、レイモンド・カーヴァーに勧められて、しばらくビルにハマったみたいな彼の文章を読んだことがある。そりゃハマるよね。全然タイプが違うし、ギリのところで生きてきた経験の重さが違うから(村上さんはそれなりに「自分って何?」と模索して、初期にはいいものを書いたけど…)。村上さん自身、ビルの短編を1本、日本語に翻訳されてます。

ビルとレイが親友なのは有名で、ワークショップの学生たちは、ビル先生がレイの話をすると目を輝かせてました。少なくともぼくは。

飲み屋でもレイは、「おい、ビル、カウンターのあの男、いまなんて言ったか聴こえた?」とすぐにメモを取ろうとするそうです。で、ビルが、「よせよ(=書くことは忘れて、飲もうぜ)」と。いちばん覚えているのはこの話で、あとは忘れました。そんなに頻繁にレイの話をするわけでもないし。

そうそう、フィル・コンドンの話でした。ワークショップを受講したのは一度だけ。ゲスト講師みたいな感じだったから、その頃、どこかの雑誌に短編が載って注目されたとか、そういう扱いだったと思う。

いまの写真は精悍な感じだけど、同時はひげボーボー、髪ぼさぼさで、モンタナにいそうな仙人感はすでにあった。すごい誠実な人で、週末、土曜だったと思うけど、ぼくは調べ物があって滅多に行かない大学の図書館に行った(普段は家のソファに寝転んで本を読んでるだけ)。図書館1階のカウンターの中にフィルがいて、目が合って会釈したら、「こっち、こい!」の手招き。そしたら、一生忘れらないぐらいの親身なアドバイス&お説教。 

I like much of your writing very, very much. 

最高の褒め言葉でしょ? けなす前にまず褒める。これ鉄則。 「でもな」と……小1時間の特別授業。よく覚えているんだよね、他人の短編の詳細まで。

You write poems, don't you?

「おまえ、詩を書くだろ?」と。「それはおまえの文章にすごい、いい効果をもたらしているんだけど、読者にとっては唐突すぎるんだよ。短編小説の中で詩的な文章をどう使うか、もうちょっと真剣に考えようよ。例えば、アキオが書いた言葉で覚えてるんだけど……」と詳細に彼は語るのです。

で、わかったのは、ぼくの文章の細部の表現が彼は個人的にとても好きだった、でも短編(といってもそこそこ長い)の構造としては全然だめだ、と。細部の詩的な言葉を活かすためには、どういう構造の短編にするか、設計図のような絵を書きながら説明してくれた。涙がでるほど嬉しかった。後にも先にも彼だけ。いや、昨日触れたPeter Fongも熱心なアドバイスをくれた。英語はぼくにとって第二言語なわけで、その部分も容赦なく指摘してくれたのはPeterだけ。魯迅にとっての藤野先生みたいな感じかな。喩えがすごいな(ところで、ぼく、上海では魯迅公園の近くに住んでました)。

で、日本語でも書くことを勧めてくれたのはフィルで、ぼくが「日本語だと書くのが辛くて…」と答えると、彼は無言になって、でも<そうだな、わかるよ>みたいな表情になった。

優秀な物書きは、軒並み優しい。

ああいう仲間(というか先生)とずっとつるんでいたら、ぼくも中国くんだりまで出稼ぎに行かなくても済んだかも、といま思うけど、その遅れはこれから取り戻す。

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